所澤神明社の由来
日本武尊(やまとたけるのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)に祈られたことに由来します。
日本武尊が東夷征伐にあたり、当神社の付近である小手指原にさしかかり、ここで休憩したと伝えられます。所澤神明社はそのおり、日本武尊が天照大御神に祈られたことに因んで、土地の民が天照大御神を祀ったものといわれます。
所澤神明社は、所沢周辺に数多く残る日本武尊に関する伝説の中心的な存在でもあるわけです。
当神社は、文政九年(1826) に、火災に遭い社殿および別当寺であった真言宗花向院が焼失いたしました。それ以前の二度の火災とも併せて、このとき古記録と宝器のほとんどが失われたために、残念ながら正確な創立年は不詳となってしまいました。
しかし、現在も境内に残る老けやきは周囲一丈二尺、大樫は一丈三尺、喬杉は一丈二尺というように、何本もの大樹が堂々とそびえており、当神社がはるかな古よりつづく神社であることをしめしています。
文政の火災で総鎮守である神明社を失った氏子たちの愁いは大きく、直ちに再建にとりかかりました。当時の名工、中手妙王太郎の後見のもとに、社殿が造営されたと伝えられています。
明治二年に寺社を分離して花向院は廃寺、神明社が独立し、明治三十五年には現在の社殿が建立されました。また、昭和九年に県下随一の大きさを誇る総檜づくりの雄大な拝殿が完成。また末社も相殿として新築し、昭和九年に竣工したものです。