この坂稲荷神社は所澤神明社の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の御分霊をお祀りしています。
古くより、身近な信仰の対象として親しまれてきたお稲荷様。その中でも「坂稲荷神社」は、全国でも珍しい3匹の子狐を連れた狐の石像が置かれ、子育て・安産のご利益があるとされています。
ここ、埼玉県所沢市のタワーマンション街にある小さな神社には、今日も子供を持つ母親が訪れています。
坂稲荷神社は、元禄時代(1688~1704)より前に創建されたといわれています。 祀っているのは、穀物の神、倉稲魂命(別称、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ))。 創建時より商売繁盛、五穀豊穣の「坂のお稲荷様」として、親しまれてきました。
戦前、花柳界の盛んな頃は、お客様の足をとめる「足どめの稲荷様」としても親しまれてきました。 また、寛政の大火事の時は、神社のきわで火が止まり、大事をふせいだ「火伏(ひぶせ)の神様」といわれていました。 戦後、町内で大火が頻発した際も、祈願したところ、その後大火がなくなったと言い伝えられています。 現在では、「子育て稲荷」として、子供をもつ母親が多く訪れています。
坂稲荷神社の眷属の狐の石像は、全国的にも珍しい3匹の子どもを連れていらっしゃいます。お稲荷様本来の豊かさの象徴とあわせて子宝や、安産祈願のご利益があるといわれています。
狐の石像は眷属(けんぞく:神のお使い)であり、他の神社の狛犬と同じです。3匹の子狐に授乳し親子睦み合う姿は、全国でも数少ない例です。おだやかな表情も秀逸です。
社殿装飾絵は、約180年前の建築である社殿に施された、絵による装飾のことをいいます。社殿の正面にある板唐戸には向かい合った白狐が一対、その下の羽目板には牡丹と唐獅子、左右の板壁には黒い鯉の滝登り、後部の脇障子には牡丹2輪が雄渾に描かれています。
作者である三上文筌(みかみぶんせん 1818頃~1858)は、谷文晁という著名な画家に師事し、所沢や江戸を中心に活躍した絵師で、ペリー提督の2度目の来航(嘉永七年 1854年)の際には松代藩の御用絵師として黒船絵巻などを描いたことでその名を世に広めました。
文筌は生家が坂稲荷神社の西隣にあったことから、幼少より神社と縁の深い人物であったと思われます。 松代藩(真田藩)の御典医高川家に養子に入り常に藩主と共に行動したので、黒船来航時は厖大な記録画を残しました。 大英博物館が6000万円で買い上げた作品もあります。 全国的には高川文筌として知られています。
高川文筌筆「真田宝物館所蔵」
高川文筌筆「真田宝物館所蔵」
昭和33年に文化財として指定された大幟二旒は、寛政十二年二月初午に書かれたもので、その長さは約10mもあります。幟には下記のように記されています。
作者である斎藤鶴磯(かくき)(1752頃~1828)は『武蔵野話(むさしやわ)』の著者としても有名で、寛政十二年(1800年)には所沢に住み、文化十三年(1816年)以後江戸に移ったといわれています。
江戸時代末期より、綿織物や絹綿交織物の集散地として栄えた所沢ならではの奉納品です。
坂稲荷神社は、近所に住んでいる数人が世話人を務める慣例になっており、御幸町・日吉町・東町の三町内会によって代々守られてきました。
その三町内会が交代で毎年三月第二日曜日に初午祭を行っています。お祭り当日には、所澤神明社の神職によって祭典が執り行われます。この日は覆殿の扉が開かれ、米、酒、餅、野菜、果物が供えられ、重松流(じゅうまりゅう)祭ばやしが奉納されます。また新三八市もこの日に商店街で開催され狐の嫁入り道中も行われます。
初午祭は、もともと奉公人の出替わりの時期に行っていたこともあり、当時から大変な人出であったそうです。現在も初午祭の時期になると、町内会の枠を超えてたくさんの人が集まり、所沢の人々が親睦の和を深める絶好の機会となっています。
祭神 | 倉稲魂命(宇迦之御魂神) |
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所在 | 所沢市御幸町1-22 48坪(所澤神明社、飛地境内地) |
書上帳 | 元禄七年掲載(西暦1694年) |
神社明細帳 | 明治四十年掲載(西暦1907年) |
幟 | 寛政庚申(十二年)二月(西暦1800年) |
水屋 | 文化丙寅(三年)四月(西暦1806年) |
鳥居 | 文化戊辰(五年)四月(西暦1808年) |
社殿 | 天保丁酉(八年)秋日(西暦1837年) |
石狐 | 天保癸卯(十四年)九月(西暦1843年) |
斎藤鶴磯 書 幟 二旒
昭和33年10月25日 所沢市指定有形文化財(書跡) 第三号指定
寛政庚申(1800年)
奉納 正一位稲荷大明神
二月初午
野老澤村 鶴磯處士 敬書
三上文筌 筆 社殿装飾絵 七面
平成3年1月10日 所沢市指定有形文化財(絵画) 第七十二号指定